裏切り : 第五章【ありがとう】

 『裏切り』の第五章。

 参観日だった。
 母が来てくれていたころ、ぼくはいつも何度も振り返っては手を振ったりしていた。母は笑っていた。まわりにいるお母さんたちも笑っていた。
 でもその日は、もう来ない。
 振り返っても、だれもいない。ぼくを見守ってくれる人はもういない。同じ場所に向かって隣を歩いてくれる人、一緒に帰ってくれる人がいない。映画やテレビによくある一つのシーンがそのままそこにはあった。

 父は仕事で忙しい。それはわかっていた。
 でもたまには、車に乗って帰りたかった。いつもの歩き慣れた帰り道を歩くことにも疲れてしまっていた。
 父の日には、母の絵が描けないから、父のことも描きたくなかった。でも母の日に母の絵を描けと言われたら、ぼくはきっと母の顔を描いていたと思う。
 もしかしたら、いつも一緒にいてくれるより、そっちのほうがもっとうまく描けるかもしれない。記憶はいつも鮮明だった。それか、もしかしたら母の日に、父の顔を描いていたかもしれない。

 母の日に、いつもがんばってくれるお母さんに “ ありがとう ” の言葉を贈ろうということで、小さなカードを書くという授業があった。
 ぼくはしばらく経ってから、教室の前のほうで椅子に座っている先生のところまで行って、訊いた。
「どのお母さん?」
 本当にどうしようもないぼくは、そのとき冗談めかしてヘラヘラしていた。
 それでも、ぼくの家のことを知っている先生は、すぐに優しくこう答えてくれた。
「じゃあ、本当に “ ありがとう ” って言いたい人に書いてごらん」
 ぼくはなにも書かずに、家の机の抽斗にそれをしまった。

 でも先生は、期限をすぎてからもずっと提出しなかったぼくになにも言わないでくれた。
 やっぱり、それを忘れて机ごと捨ててしまう前に、その言葉は、そのときは先生に渡せばよかった。

 その学期の成績は “ 普通 ” だった。
 でも、今になって思ったことを、ちゃんとそのとき行動に移せていれば、先生はぼくの成績に “ 満点 ” をくれたのだろうか? 


 ぼくはきっと、あの日見上げた母のそのうしろ姿から、いろんなことを学んだのかもしれない。
 自分で自分を見守ることができるようになった。
 そんな気がする。
 どうしようもなくなったとき、自分で自分を支えることができるようになった。
 ほんの少し強くなれた、そんな気がする。
 だから今なら、母に “ ありがとう ” を贈れる。

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